『仄雪の下で』 後編


晴れていた地元の空とは違い、こちらの空はどんよりと曇っていた。
指先がかじかむ。思ったより寒い。念のためと旅用荷物の中に、コートを入れておいて正解だったようだ。早速着込もう。
新幹線のぞみ号という、サラリーマンかブルジョアでない限りそう頻繁にお世話にならないであろう車両に一人揺られて数時間。着いた世界は暗色の空。
でもまぁ、予報によれば雨雪は降る事はなさそうだという。
俺は駅の外のロータリーに停まるタクシーに乗り込み、住所の書いてあるメモを渡した。
今は一刻でも早く、美紀に会いたかった。
やっと会えるかもしれないという安堵感を、俺は楽天的にも、タクシー内で味わっていた。


だが…………。


「―――――――!!!!!!!!!!」
もうすぐ到着します、という運転手の声に、タクシーの中で、流れる景色を見つめていた俺は―――――愕然とした。


そこは大きな病院だった。
後で聞いた話では、地域最大にして最高の設備を誇る病院だと言うが、その時の俺にはその事実などどうでもよかった。
ただ、信じられなかっただけだ。


「どうされました?到着しましたよ?」
運転手がいぶかしげに俺を見つめながら聞くのに気付き、動揺を隠そうとしながら――無理だが――俺は運転手に訊いた。
「―――本当に、この場所で合っていますか?」
運転手は少しむっとした表情をして、他にこの住所の場所があるなら行ってみたいものです、と答えた。
俺の中に、最悪の予感がむくむくと沸き上がってきた。いや、もうこれは確信だろう。
一先ずは運転手に、非礼を詫びながらタクシー代を渡し、荷物をひっ掴むと俺は病院に駆け込んだ。


†††††††††††


アポを受付で取り、数分後、ようやく彼女のいる部屋に入る許可が出た。既に俺の心臓は落ち着きを保てなくなっている。一体、何故美紀はここにいるんだ?デートの時はいつも元気な姿を見せていた美紀。病気は既に完治したと、病弱の原因を言ったときに話した、あの事は嘘だったのか?
俺の中にとりとめもなく浮かぶ思考の断片。それは他のどれとも身を結ぶ事なく、水泡の如く弾けて消えていく。
病室の前に着いた。『海部美紀』と言うネームプレート。他には誰も部屋にはいないようだ。
俺は一度深呼吸して、スライド式ドアの取っ手に手をかけた。


†††††††††††


最悪の予感は、これ以上無いほどに当たっていた。


†††††††††††


美紀は、ベッドの上に横たわっていた。
だがそれは、俺の知る美紀のどの姿とも、似ても似つかなかった。


腕などには沢山のチューブがついており、点滴液がそこを通って美紀の体に入っていく。
口と鼻を覆う透明なマスク――呼吸補助器が装着されたその顔は、三ヶ月前に最後に会った時より青白く、どこか痩けている感じがした。
心電図は………今は平常通りだ。何も異常はない。


驚きの硬直状態が解けてきた俺は、震える足をどうにかして美紀に近付いた。
美紀は、俺に気付いたらしい。ほとんど動かないであろう首を俺の方に向けた。
「………どうして?」
ここが分かったのか?ここに来たのか?その二つの意味が篭っていた。
俺は叫び出したくなるのを何とかこらえ、心を落ち着けて話しかけた。
「………住所は流駈の奴に頼んだ。どうしてかは――」
俺は顔を美紀に近付けた。
「――どうしてあんなメールを打った?お前らしくもない、バレバレな嘘のメールを」
心の中で何とか必死に押さえていた感情が漏れだしそうだった。ベッドに乗せた手が震え出しているのがよく分かる。
美紀は、俺の方に相変わらず顔を向けたまま――心なしか少し微笑んだ顔をして――言った。
「………嫌われたかったの……」
耐えられなかった。
「………っざけんな!何でだよ!何でいきなりそんな事思うんだよ!?理由分かんねぇよ!俺といる時間がつまらなくなったのか!?」
気付いたら叫んでいた。この部屋の防音加工とか、周辺の部屋への配慮とか、そんな些細なことを忘れてしまったほどに。
「それなら面と向かって言ってくれよ!どうしていきなり――」


「―――タカが好きだからだよっ!」


「!!!!!!!!!!」
それは、今の彼女にしては相当無理をした大声だったんだろう。少し咳き込んでいた。だが、それよりも、俺は――。
「―――好きだったら、何で嫌われようなんて思ったんだよ!?理由分かんねぇよ!」
男としてはみっともない、喚き散らすように美紀に叩き付ける言い方をしてしまった。でも、とても抑えられそうになかった。
それに対する美紀の返答は――
「―――タカを、悲しませたくなかったから……」
「!?」
――俺が考えもしなかった理由だった。お前と別れる以上に、哀しい事などない、そう俺は考えていた。
驚きのまま何も言えなくなった俺に、美紀は、静かに話し始めた。


「―――一年ほど前かな。私の病気が、再発しそうだって、医者に宣告されたのが。
その時はまだ、平気だと、思ってたの。体が動くし、何より――タカと別れたくなかったから、タカと一緒にいたかったから」
「…………」
俺は黙って美紀の話を聞いていた。少しずつ、落ち着きを取り戻して来たような、そんな感じがする。だが、同時に、何かあればすぐに爆発してしまいそうな感覚も。
「でも、限界が来ちゃった。………三ヶ月くらい前、ついに再発。体がうまく、動かなく、なってね」
「………都合が悪くなったのは、その事か」
微笑。それは無言の肯定。
「医者に言われたの。病気がね、全身に回っちゃって、もう手の施しようがなくなっちゃった、って。
私は悲しかった。タカと、いられなくなる、こともそうだけど、何より、


私が死んだ時、タカが悲しむこと、それが耐えられなかった」


ここで美紀は一度言葉を切り、そして続けた。
「私が死んだら……タカは……私のことを哀しい思い出として覚えちゃうと思う。だから………私のことで、タカの幸せを逃して欲しくないから…………タカには、私のことを早く忘れて、幸せになって欲しいから………」


「…………けんなよ」
この日、
「………え?」
俺は初めて、彼女に怒りを覚えた。
状況がそうさせたのかもしれない。全てを分かち合っていた、などと洒落た事を言うつもりはないが、一番大事なことを黙っていられた事実。
「ふざけんなよ!嫌われれば忘れるだと?んなわけあるかよ!嫌われたら嫌われたで、嫌な思い出として残されるだけだ!悲しませたくないだなんて言うなよ!互いの苦しみを理解してこその関係じゃねぇか!」
そして、俺は、気付けば胸のうちを叫んでいた。
「俺は忘れねぇよ!お前がどんなに俺に嫌われようとしても!お前がどんなに俺を遠ざけて、俺に忘れてもらおうとしても!


当たり前だ―――俺はお前のことが好きだからなっ!」


「!!!!!!!!!!」
半涙目で驚く美紀に、俺は続ける。
「なぁ………、両思いなんじゃねぇか………。病気がそうなら、俺に一言ぐらい言ってくれよ………!心配したじゃねぇか………、いきなり消えんなよ………!」
泣きそうになるのを男の見栄で何とかこらえ、震える声で俺は、美紀にそう告げた。
「…………ごめんね。嘘、ついて………でも、タカの前では、元気な姿のままでいたかったから………」
「ばかやろう………無理すんなよ………」
「ごめんね……………」
それは、恋し合い愛し合った二人の、哀しい告白、哀しい会話。暫く続いた一言での会話は、彼女は、体力の限界が来たのだろう。糸が切れたように意識を失った美紀によって、終りを迎えた。


永遠に続くような沈黙の後、どうしようもない程の無力感で満たされながら、俺は、部屋を出た。
最後に振り向くと、そこには静かに眠っている、美紀の姿があった。
その頬は、涙が光を反射して、煌めいていた。


†††††††††††


その二日後の、大晦日の夜だった。
美紀が亡くなったのは。
二人で年を越すことは、二度と叶わなくなってしまったのだ。


葬儀は身内だけで行うそうだが、特別に、お香だけはあげさせてもらう事になった。
「美紀に優しくして下さってありがとうございます」
その言葉一言一言が、俺にとっては何よりも辛かった。


香をあげた後、俺はすぐに葬儀場を出た。別に家族と一緒にさせようと気を遣ったわけではない。ただ、美紀の前にいると、涙が出そうになる。その涙を、美紀の家族に見られたくなかっただけだ。


雪。
ちらちらと降り始めた雪は、あまり気温の高くないこの周辺地帯を、徐々に白く色付けしていく。
俺の着ていた黒いコートの上に、白いファーがかけられていく。


遠くで、霊柩車が鳴らす別れのサイレンの音が聞こえた。


数秒と持たなかった。


「…………っくっ、………っくっ………」
涙は、悲しみは、自分の意思では、理性では、どうしようにも抑えられなかった。路上でしゃくり声をあげる俺。
「………っそっ…………ぅして、俺を置いて………んだよっ…………!」
中途半端に降る雪が、今は恨めしかった。
俺の涙を隠せないから。


俺の目の前を通る美紀の霊柩車。それはまるで、彼女が俺にさよならを言っているように感じた。
永遠の、さよならを。


こうして俺は、大切な人をを失った。


†††††††††††


一年後、俺は美紀の墓の前に来ていた。
今年の冬は暖かいらしく、雪は降りそうにもなかったが、それでも美紀の命日には、ちらちらと空から仄かに雪が降り、俺の肌に、コートに触れては水玉になっていった。


あれから、俺は物思いに更ける時間が増えた。
心の空白を埋めるのに、体は相当の時間を必要とするらしい。
食欲も暫くは減衰していて、少しやつれていたらしく、バイト仲間には心配された。
そんな俺の肩を、流駈はただ、優しく叩いてくれた。
ただ、それだけで嬉しかった。


なぁ、美紀。
お前、最後に言ったよな。
『タカには、私のことを早く忘れて、幸せになって欲しいから………』って。


なぁ、美紀。
いつかお前の墓に、花が飾られなくなっても――いや、飾られなくなったら、どうか安心してくれないか。
お前を忘れたかどうかは分からない。
いや、忘れることはないだろう。
だが、俺は、新たな道を歩き始めることが出来たんだ、と。


お前と果たせなかった幸せを、掴みに行こうとしているんだ、と―――。



fin.


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影華さんのリクエストより、『告白』をテーマにお送りしました。
期待に沿えなかったらごめんなさい。表現下手だったらごめんなさい。


作品について語るのは、また別の機会に、例によって座談会形式で。
感想があれば、どうぞ気兼せずに書き込んで下さいな。


では。